大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

札幌高等裁判所 昭和35年(ネ)109号 判決

控訴人 国

訴訟代理人 杉浦栄一 外三名

被控訴人 中央信用組合

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取消す。被控訴人の本訴請求を棄却する。被控訴人は控訴人に対し金七八三、三五九円および内金七六五、〇〇〇円に対する昭和三二年八月六日から支払ずみまで年六分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は本訴反訴を通じて第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は、主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述および証拠の提出、援用、認否は、被控訴代理人において、被控訴人は原判決事実摘示第三の三の信託譲渡および通謀虚偽表示の主張を撤回し、新たに次のような主張を追加する。すなわち、仮に本件預金債権の真の権利者が訴外陳節子であるとしても、同人は、本件預金の真の権利者を夫陳朝陽とする意思がないのに、これを秘匿して、敢えてその預金者を陳朝陽と表示して、被控訴人との間に本件預金契約を締結したものであり、預金者を陳朝陽とする右預金契約は陳節子の真意に非ざることを知りてなしたものであるが、その効力を妨げられないから、被控訴人との関係では本件預金債権の権利者は陳朝陽であるといわなければならないと陳述し、甲第一一号証を提出し、控訴代理人において、被控訴人の右信託譲渡および通謀虚偽表示の主張の撤回は、自白の撤回に該当し、心裡留保の主張は甚しく時機に遅れた攻撃方法であるから、ともに許されない。仮に右心裡留保の主張が許されるとしても、被控訴人主張の事実を否認すると陳述し、甲第一一号証の原本の存在ならびに成立を認めると述べたほか、原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。

理由

被控訴人が中小企業等協同組合法にもとづき、同法第九条の八第一項所定の事業を行う法人であることは、原審証人竹内勝男、山崎一雄の各証言および弁論の全趣旨により明らかであり、昭和三二年八月五日現在で訴外朝沼陽一および陳朝陽名義の被控訴人に対する本件預金債権すなわち原判決末尾添付の目録(一)記載の各預金および約定利息の払戻請求権があつたことおよび控訴人の機関である札幌国税局長が右同日右訴外人の妻陳節子が北海飲料水工場という商号のもとに清涼飲料水の製造を行つて、その事業により同日現在控訴人に対し滞納していた被控訴人主張の税金合計金一二、〇八九、五五九円を徴収するため、国税徴収法第二三条の一にもとづき、本件預金債権を右陳節子の債権であるとして差押え、同日その旨被控訴人に対し通知してきたことは当事者間に争がない。

そこで本件預金債権の帰属につき考えるに、右陳朝陽の妻陳節子が北海飲料水工場という商号のもとに清涼飲料水の製造を行つていたとの当事者間に争のない事実に原審証人竹内勝男の証言により真正に成立したと認める甲第三、第四号証、同第六号証の一、二、原審証人酒田光義の証言により真正に成立したと認める乙第二号証(但しその一部)、原審証人阿部島康夫の証言により真正に成立したと認める同第三号証(但しその一部)、成立に争のない乙第六ないし第八号証、同第一〇ないし第一七号証、原審証人竹内勝男、陳朝陽、陳節子、山崎一雄の各証言の一部、原審証人酒田光義、阿部島康夫の各証言および弁論の全趣旨を併せ考えれば、右陳節子は昭和二四年頃から前記清涼飲料水の製造を行つてきたが、その事業による収益を金融機関に預け入れ、またはその事業に必要な資金等を金融機関から借受けるにあたつては、北海飲料水工場の経営者である陳節子なるものの表示として、便宜上、夫の中国名陳朝陽または日本名朝沼陽一の名義を借用して銀行取引を行つてきたので、昭和三〇年頃から被控訴人と取引をなすについても、右同様の趣旨で陳朝陽または朝沼陽一の名義を借用して右収益の一部を本件預金として被控訴人に預け入れ、また右預金やその他の不動産を担保として、被控訴人から事業資金の貸付を受けたことが認められ、原審証人竹内勝男、陳朝陽、陳節子、山崎一雄の供述および乙第二、第三号証の陳朝陽の供述記載中右認定に副わない部分はいずれも前顕各証拠に照らしにわかに信用しがたく、他に右認定を動かすに足りる証拠はない。したがつて、本件預金の真の権利者は陳節子であつて、同女が右預金を被控訴人にするにあたつて、陳朝陽または朝沼陽一なる名義を使用したのは、北海飲料水工場の経営者である陳節子を表示するための手段として、便宜上夫の中国名または日本名を借用したにすぎないものであるといわなければならない。

ところで被控訴人は原判決事実摘示第三の三の信託譲渡および通謀虚偽表示の主張を撤回し、新たに心裡留保の主張を追加したが、控訴人は右主張の撤回は自白の撤回であり、また心裡留保の主張は甚しく時機に遅れた攻撃方法であるから、許されないと主張するけれども、被控訴人の右信託譲渡および通謀虚偽表示に関する主張事実は控訴人の否認するとてろで、この点に関しては自白が成立していないことが記録上明らかであり、右心裡留保の主張は被控訴人から昭和三六年一一月七日当審における第八回口頭弁論期日になされたものであるところ、本件口頭弁論は第一〇回をもつて終結され、右主張がなされたため特段の証拠調は必要としなかつたものであることが記録に徴し明らかであつて、右主張の追加は時機に遅れたものとしても、そのため訴訟の完結を遅延させたものとは認められないので、控訴人の前記主張は採用しがたく、右主張の追加は許されるけれども、本件預金は、北海飲料水工場の経営者である陳節子を表示するものとして便宜上陳朝陽または朝沼陽一の名義を借用して、陳節子が自己を預金者としてなしたものであることは前記認定のとおりであり、陳節子が本件預金の真の権利者を陳朝陽とする意思がないのに、敢えてその預金者を陳朝陽とする旨の意思表示をしたものとはいいがたく、その他この点に関する被控訴人の主張事実を認めるに足りる証拠はないから、被控訴人の右主張は採用することができない。

そこで、次に被控訴人の相殺の主張について判断するに、前顕甲第三、第四号証、第六号証の一、二および前掲原審証人竹内、山崎、陳朝陽、陳節子の各供述の一部に弁論の全趣旨を綜合すれば、被控訴人は本件差押当時である昭和三二年八月五日現在において北海飲料水工場の経営者陳節子に対し本件預金債権を担保として手形貸付の方法によつて貸付けた原判決末尾添付の目録(二)の(イ)ないし(ハ)記載の各貸金債権および手形割引によつて取得した同(ニ)ないし(ヘ)記載の各手形債権を有していたことならびに右貸金または手形割引に際し陳節子は北海飲料水工場の経営者としての自己を表示するのに便宜上夫の中国名陳朝陽または日本名朝沼陽一の名義を借用したものであつて、右貸金または手形割引による債務の主体は陳節子であり、その融通を受けた金員は右北海飲料水工場の事業資金に充てられたものであることが認められ、前掲証人の供述中右認定に副わない部分は弁論の全趣旨に徴し措信しがたく、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

しかるところ、原判決末尾添付目録表示のとおり被控訴人の陳節子に対する前記貸金債権中(ハ)の債権が本件差押当時履行期到来し、その余の貸金および手形債権はすべて履行期未到来であつたことは当事者間に争がなく、陳節子の被控訴人に対する本件預金債権中(12)の債権を除くその余の債権は右差押当時すべて履行期到来し、右(12)の債権のみ履行期未到来であつたことは弁論の全趣旨に照らし明らかであるが、前掲甲第三、第四号証、成立に争のない同第二号証の二、郵便官署作成部分の成立につき当事者間に争がなく、その余の部分は前記原審証人竹内の供述により真正に成立したと認められる同第二号証の一および同証人の供述を綜合すれば、被控訴人と陳節子との間に昭和三一年八月一七日契約者陳朝陽名義であらかじめ、被控訴人は陳節子に対する債権保全のために、被控訴人の陳節子に対する貸金債権または手形債権と右節子の被控訴人に対する本件預金債権とを、そのいずれの期限の如何にかかわらず、いつでも対当額で相殺することができる旨の約定がなされていたので、右特約に基き被控訴人は本件差押後であゴる昭和三二年八月二二日陳節子に対し原判決末尾添付目録(二)(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)の本件貸金債権および手形債権元本金一、五三〇、七二一円、利息金二、七五九円を自動債権として本件預金債権元本金七六五、〇〇〇円、利息金一八、三五九円と対等額で相殺する旨の意思表示をなし、右意思表示は翌二三日右節子に到達したことが認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はなく、被控訴人が右二二日控訴人に対し右の旨通知し、右通知は翌二三日控訴人に到達したことは当事者間に争がない。

ところで控訴人は被控訴人の陳節子に対する本件貸金債権および手形債権は(ハ)の債権を除き、本件差押当時履行期未到来であつたから、右相殺は無効であると主張するけれども、控訴人は本件預金債権を当時施行されていた国税徴収法第二三条の一に基づき差押えた後債務者陳節子に代位してこれを取立てんとするものであるところ、右国税徴収法の規定に基づく債権差押の場合には、その国税滞納者は被差押債権につき、取立、弁済の受領、その他債権を消滅させるような一切の処分を禁止されることとなる結果、滞納者が被差押債権についてなした弁済の受領、被差押債権の譲渡等の効力は差押債権者に対する関係で認め得ない当然の結果として、弁済者、被差押債権の譲受人は元来当該差押執行関係については無関係な第三者の立場にあるにもかかわらず、反射的にその弁済または被差押債権の譲受をもつて差押債権者に対抗できないことになるのであるが、被差押債権の債務者(第三債務者)は、差押により被差押債権について差押前から有する抗弁権その他被差押債権についてなされた契約上の権利行使を妨げられる理由はない。差押は本来執行債務者の権利行使を制限するものであり、第三債務者はその制限に反する執行債務者の行為の効力を反射的に甘受させられるにすぎないものであるからである。しかして債権差押債権者が被差押債権の債務者に代位して取立てる場合には、差押債権者は本来執行債務者本人に代わつて本人の有する権利を行使するだけのことであるから、本人の立場以上に有利にその権利を行使し得ないのは当然であつて、わずかに民法第五一一条がその例外をなすにすぎない。同条は支払の差止を受けた第三債務者はその後に取得した債権により相殺をもつて差押債権者に対抗することができない旨定めているに止まるから、その前から有する債権によつて相殺することは法文上なんら制限されていないのであるから、第三債務者が被差押債権の差押前から執行債務者に対し債権を有し、自己の債権保全のために、執行債務者に対する債権、債務の期限の如何にかかわらず、執行債務者に対する債権をもつて自己の債務と相殺することができるとの特約を結んでいる場合には、右第三債務者はその債権の,履行期が債権差押当時未到来であつても、債権差押後に右債権をもつて被差押債権と相殺する旨の意思表示をなし得るものと解するのが相当であつて、相対立して発生する債権債務につき一方の債権者が相手方に対して有する債権を保全するために相手方をしてその有する債務の期限の利益を予め放棄させ、何時でも前者の一方的相殺を可能ならしめることを認諾するも右契約の当事者においてこれを無効とすべき理由がないから、第三債務者である被控訴人が前記債権差押前から本件貸金債権および手形債権を有し、前記のような特約がある本件の場合には、たとえ右差押当時被控訴人の右債権の履行期が未到来のものがあつたとしても、その差押後に被控訴人は右貸金債権および手形債権をもつて被差押債権と相殺することができるものといわなければならないので、控訴人のこの点に関する主張も理由がない。

次に控訴人は被控訴人の本件自動債権は手形債権であるから、右債権をもつて相殺をなすには手形の交付または呈示を要するのに、本件では被控訴人はいずれもこれを行つていないから、前記相殺は無効であると主張し、被控訴人が右相殺をなすにあたり手形の交付または呈示をしなかつたことは当事者間に争がないけれども、本件(イ)ないし(ハ)の債権が貸金債権であつて、手形は単に右,貸金債権の履行確保のために被控訴人に交付されたものにすぎないことは前記認定に徴し明らかであるから、右貸金債権については相殺をなすにあたり、手形の交付または呈示を要しないものであるといわなければならない。、しかしながら、本件(ニ)ないし(ヘ)の債権は前記認定のとおり手形債権であり、右手形債権をもつて相殺をなすには手形の交付または呈示をする必要があるのに、これをしなかつたのであるから、右手形債権をもつてする相殺は無効であるといわなければならない。よつて控訴人のこの点に関する主張は一部理由あるに帰する。

控訴人は、被控訴人が前記相殺の意思表示をなすにあたり、本件貸金債権のどの債権をもつて本件預金債権と相殺をなすか明らかにしていないので、自動債権の特定がないから、右相殺の意思表示は無効であると主張し、被控訴人が本件相殺をなすにあたり、本件貸金債権のどの債権をもつて、本件預金債権のうち各いずれの債権と相殺をなすか明らかにしなかつたことは当事者間に争がないけれども、被控訴人は本件貸金債権すなわち原判決末尾添付の目録(二)の(ニ)ないし(ヘ)手形債権を含めた(イ)ないし(ハ)の貸金債、権を自動債権として本件相殺の意思表示をなしたものであることは前記認定のとおりであつて、自動債権の特定としてはなんら欠けるところがないから、被控訴人の本件相殺の意思表示が直ちに無効となると解すべきいわれはなく、本件の場合には相手方である陳節子もまた相殺の充当の意思表示をなさなかつたものであることが弁論の全趣旨から明らかであるから、民法第五一二条、第四八九条の規定に従い法定充当をなせば足りるものというべきである。したがつて控訴人の右主張は採るを得ない。

次に控訴人は被控訴人の本件相殺の意思表示は控訴人に対してなさるべきであるのに、陳節子に対してなされたものであるから無効であると主張し、被控訴人の本件相殺の意思表示が控訴人ではなく、陳節子に対しなされたものであることは当事者間に争がないけれども、国税徴収法に基づく債権差押は単に執行債務者に対し被差押債権の処分権を制限するだけで、右債権の主体たる地位を喪失させるものではなく、執行債権者も執行債務者に代位してその権利を行使し得るにすぎないものであるから、被差押債権を受動債権とする相殺の意思表示は、債権差押後といえども、執行債務者に対しなすべきものであるといわなければならないので、被控訴人が執行債務者である陳節子に対しなした本件相殺の意思表示は無効とはいえない。よつて控訴人の右主張は採用しがたい。

してみれば、陳節子の被控訴人に対する本件預金債権と被控訴人の陳節子に対する本件(イ)ないし(ハ)の貸金債権とは前記相殺の意思表示により対当額において相殺されたものであるが、前説示のとおり被控訴人も陳節子も相殺充当の意思表示をしなかつたものであるから、民法第五一二条、第四八九条、第四九一条の規定に従い、陳節子の被控訴人に対する右預金債権については原判決末尾添付の目録(一)の2、3、4、5、6、7、9、1、10、11、8、12の順に、被控訴人の陳節子に対する右貸金債権については同(二)の(ハ)、(イ)、(ロ)の順に相殺充当され、結局陳節子の被控訴人に対する石預金債権は前記相殺により全額消滅したこと算数上明らかである。

ところが、控訴人が本件預金債権の消滅を争い、被控訴人に対しその取立を企てていることは控訴人の主張自体に照らし疑いの余地がないから、右預金債権の不存在確認を求める被控訴人の本訴請求は正当であり、右債権の存在を前提として陳節子に代位して被控訴人に対し右預金の払房を請求する控訴人の反訴請求は失当である。

よつて被控訴人の本訴請求を認容し、控訴人の反訴請求を棄却した原判決は相当であつて、本件控訴は理由がないので、民事訴訟法第三八四条によりこれを棄却し、訴訟費用の負担につき同法第九五条、第八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 南新一 輪湖公寛 藤野博雄)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例